Kara Crest

World Heritage of Europe
  • La tour Eiffel
  • La tour Eiffel

  • フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分かなうのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、クライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。塔の支点の下には水平に保つためのジャッキがある。万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。現在ではパリを代表するシンボルとなっている。1991年この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。
  • Arc de triomphe de l'Etoile
  • Arc de triomphe de l'Etoile

  • パリの象徴的な建造物の一つ。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(la place de l'Etoile)」と呼ばれていた。なお、「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。古代ギリシャ、ローマを模範とする新古典主義建築の代表作である。シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」 (la Grande Arche、またはl'Arche de la Défense) があるが、これは戦勝記念碑ではないので、正式名称に "triomphe" が付いていない。すなわち「凱旋門」ではない。しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目の「門(arc, arche)」であるとの認識があるため、フランスの国の標語である「Liberté, Égalité, Fraternité」(自由、平等、友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternité」(直訳 - 友愛の大アーチ)との正式名称を持つ。
  • エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられ、ヒトラーが戦車で凱旋した。
  • Musée du Louvre
  • Musée du Louvre

  • メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともにヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。ルーヴル美術館は、パリの中心部、セーヌ川の右岸に位置し、ルーヴル宮殿の大部分を占めている。
  • 展示室
  • 展示館は、東端のクール・カレ(方形中庭、Cour Carrée)を囲むシュリー翼 (Aile Sully)、その南西からセーヌ川沿いに西へと伸びるドゥノン翼 (Aile Denon)、シュリー翼の北西からリヴォリ通りに沿って西へと伸びるリシュリュー翼 (Aile Richelieu) に分けられる。各建物は半地下 (entresol)、1階 (rez-de-chaussée)、2階 (1er étage)、3階 (2e étage) の4層に分かれる。なお、日本語とフランス語では階数の数え方が異なり、日本語の「1階」「2階」「3階」をフランス語ではそれぞれ「地階」「1階」「2階」と表現する(以下の説明文中の「1階」「2階」等は日本語式の「1階」「2階」を指す)。美術館への入口は、セーヌ川沿いのライオン門入口 (Entrée Porte de Lions)、地下ショッピング街に直結したカルーゼル入口 (Entrée Galerie du Carrousel) もあるが、メインの入口は、中庭のガラスのピラミッドの入口 (Pyramide entrée principale) である。ガラスのピラミッド下のナポレオン広場には、各言語版の館内案内図が常備されたインフォメーション・カウンターや入場券売場があり、ここからシュリー、ドゥノン、リシュリューの各翼や、レストラン、カフェテリア、ミュージアム・ショップへと向かうことができる。シュリー翼の位置は、中世にルーヴル城が建設されたところで、地下には中世の要塞の遺構が保存され、1・2階にはエジプト、古代ギリシア、古代オリエントの美術、3階にはフランス絵画が展示されている。ドゥノン翼は、長大なグランド・ギャルリ(大ギャラリー)を含む建物で、半地下と1階にはギリシア、エトルリア、ローマ美術と中世ヨーロッパの彫刻を展示し、2階の大ギャラリーはイタリア絵画を中心とする絵画の展示場となっている。 リシュリュー翼は、1981年以降の大ルーヴル計画によって拡充された部分で、フランス彫刻、工芸品、北方絵画(ドイツ、フランドル、オランダなど)の展示場にあてられている。2階の工芸品展示室では、ナポレオン3世の居室の室内装飾も展示の一環となっている。
  • 【収蔵品/古代オリエント部門】
  • この部門は、キリスト教発祥の地であり、西洋文明の故郷でもある中近東、具体的にはレバント、メソポタミア、イランなどの地域の古典美術を対象とし、シュメール文明、アッカド帝国、バビロニア王国、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシャなど、西暦紀元以前数千年にわたりこの地に栄えた諸文明の遺産がみられる。
  • 【収蔵品/古代エジプト部門】
  • 1826年にはエジプト部門が設けられ、カイロ博物館やメトロポリタン美術館と並ぶ、世界最大級のエジプト美術のコレクションを誇る。シュリー翼半地下の「中世のルーヴル」の展示室から南側の階段を上がると、第1室で、大スフィンクス像が鑑賞者を迎える。シュリー翼1階は神殿、葬送美術、生活文化などのテーマ別展示、同2階は時代別展示となっている。22室の『書記座像』などが名高い。
  • 【収蔵品/古代ギリシア・エトルリア・ローマ部門】
  • 新石器時代から、6世紀のローマ帝国末期までの美術品が豊富に収蔵されている。作品は石造彫刻が主となるが、他に、陶器、ブロンズ製品なども豊富に有する。古代ギリシアの絵画作品は地上からほとんど失われているが、豊富に現存する陶器の上絵によって、その片鱗が窺える。ヘレニズム期に属する『ミロのヴィーナス』『サモトラケのニケ』はいずれもルーヴルを代表する著名作品である。
  • 【収蔵品/イスラム美術部門】
  • 世界でも有数のイスラム美術のコレクションを有する。この部門はかつては古代オリエント部門に包含されていたが、2004年に独立の部門となった。ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、セルジューク朝、マムルーク朝、ムガル帝国など、時代的には7世紀から19世紀、スペインからインドに至る広大な地域に興亡したイスラム王朝が生んだ陶器、ガラス器、金属工芸、象牙細工などの遺産が展示されている。
  • 【収蔵品/絵画部門(フランス)】
  • ポレオンの時代、イタリア遠征等によって国外からもたらされた大量の美術品は、ナポレオンの失脚、王制復古とともに1815年にはその大部分が元の国へ返還されたが、19世紀以降もルーヴルの絵画コレクションは増大を続け、自国フランスのみならず、イタリア絵画、北方絵画にも名品が多く、これらの外国絵画にも多くの展示スペースがさかれている。『ジャン2世善良王の肖像』『ナポレオンの戴冠式』ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』『サルダナパロスの死』ジェリコーの『メデューズ号の筏』などの大作が展示されている。
  • 【収蔵品/絵画部門(イタリア)】
  • 展示はボッティチェッリのフレスコ画から始まり、セーヌ川沿いに延びるグランド・ギャルリを経て、『モナ・リザ』、同じ部屋には巨大な『カナの婚礼』(ヴェロネーゼ)が掛けられている。ルーヴルの数ある絵画作品の中でも『モナ・リザ』だけは別格扱いで、絵の傍らには常に館職員が見張りに立っており、鑑賞者は一定の距離以上は絵に近づけないようになっている。
  • 【収蔵品/絵画部門(北方)】
  • 初期ネーデルラント、オランダ、フランドル、ドイツなどのいわゆる北方絵画、オランダ・フランドル絵画の黄金時代であった17世紀までの作品が中心となっている。18から19世紀の作品およびスイス、スカンディナヴィア、ロシアなどの絵画が展示されている。ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』の連作も展示されている。
  • 【収蔵品/彫刻部門】
  • 古代オリエント、古代エジプト、古代ギリシア・エトルリア・ローマの彫刻作品が展示されている。ルーヴルの「彫刻」部門の収蔵品は、フランスを中心とするヨーロッパの彫刻作品である。1871年、プティ=ゾーギュスタン修道院にあったフランス国立記念物博物館が閉鎖され、同館のコレクションがルーヴルに移管された。その後、1892年に工芸部門から彫刻部門が独立し、今日に至っている。
  • 【収蔵品/工芸部門】
  • 時代的にはローマ帝国時代から19世紀まで、内容的には「彫刻」に分類されているもの以外の小彫像、象牙細工、エマイユ、メダル、陶器、タペストリー、宝飾品、家具などがここに含まれる。コレクションにはフランス国王の宝物室にあった品や、サン=ドニ王立修道院に収められていた、「レガリア」と称するフランス国王戴冠式の用具なども含まれる。
  • Musée d'Orsay
  • Musée d'Orsay

  • オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。設計者はヴィクトール・ラルー。美術館の中央ホールは地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用している。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。なお、旧印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品はすべてオルセーに引き継がれている。館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされている(むろん、多少の例外はある)。絵画、彫刻だけでなく、写真、グラフィック・アート、家具、工芸品など19世紀の幅広い視覚芸術作品も収集・展示の対象になっている。オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名だが、19世紀の主流派美術で後に忘却されたアカデミズム絵画(アール・ポンピエ)を多数収蔵・展覧。
  • Mont Saint-Michel
  • Mont Saint-Michel

  • カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。
  • ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市とは姉妹都市である。
  • 主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式(11~12世紀)、百年戦争後の1421年に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成。その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。
  • 966年にはノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。1900年当時の満潮時の様子百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。 陸地化が進んだ様子(2004年当時)18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。
  • 英名:Mont-Saint-Michel and its Bay
  • 仏名:Mont-Saint-Michel et sa baie
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Cathédrale de Chartres
  • Cathédrale de Chartres

  • フランスの首都パリからおよそ南西80kmほど離れた都市シャルトルに位置し、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつと考えられている大聖堂。1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。大聖堂はカトリック教会の教会州、シャルトル教区を置く。
  • ロマネスク様式を基礎とする新しい大聖堂の建築が始まったのは1145年であったが、1194年の大火事で町全体と聖堂の西側前方部分以外が焼き尽くされたため、この残った部分のみ初期ゴシック様式となった。大聖堂本体の再建は1194年から1220年の間に行われ、中世の大聖堂としては著しく短期間で完成へと至った。大聖堂の建築は最上級のもので、その高く聳え立つ通路やきめ細かい彫刻を見て熱情に溢れない建築歴史家は殆どいないほどである。フランスにおける全てのゴシック建築の大聖堂で最も素晴らしいものの中の一つだから、上記の賛辞は十分値するものである。876年以来大聖堂は、伝承では聖母マリアのものとされる「サンクタ・カミシア(Sancta Camisia、聖衣)」というチュニックを所蔵している。これは十字軍のイスラエル遠征の間、カール大帝により大聖堂への贈物としてえられた聖遺物と考えられている。12世紀ごろ、教会は本来巡礼者のための教会であった。聖堂の周囲で行われた縁日には多くの巡礼者が参列しており、それは聖母マリアの祝祭日と同時に開かれるためだった。縁日が行われるのは聖堂のちょうど外側で、聖堂にすぐ近く教会の管轄下にあった街道や広場に連なって設けられた。縁日の中には「潔めの祝日」、「受胎告知の祭日」、「聖母被昇天祭」、「聖母マリア誕生祭」の4つの大きな聖母マリアの祭日があった。シャルトル大聖堂はシャルトルの街で最も重要な建造物であった。かつて聖堂は経済の中心であり最も著名なランドマークであって、今日も市営の建物で提供されるあらゆる活動の中心的な役割を果たしている。現存するシャルトル大聖堂にはフランスゴシック調の傑作品が築かれているが、これは火事で以前からあった彫刻品群が焼失したためである。1020年に大聖堂の重要な財産が焼失した後(これに先立ち、他の教会部分も煙で消滅している)、巨大な地下聖堂を含む素晴らしいロマネスク様式のバシリカがフュルベール司教(Bishop Fulbert)、次いでジョフロワ・ド・レーヴ(Geoffroy de Lèves)の指揮のもとに建設された。しかし、町全体を焼き尽くした1134年の大火事で残存した後も、1194年6月10日から11日未明に照明が引き起こした炎がまたもや聖堂を襲い、西側の塔とそれと地下聖堂の間にあるファサードを残すのみとなってしまった。その後の再建にはフランス中から寄付が集まり、大聖堂の調和のとれた外観を保存するため、名前不詳の建築家によって提案された設計図を用いてほぼすぐに始められた。、1220年頃には主だった建物の組み立ては完了して、古い地下聖堂と同じく火事を生き延びた12世紀中頃の威厳ある正門が、新設された建物に組み入れられた。1260年10月24日、大聖堂はついにルイ9世王家の手に渡った。内観は外貌の気品からさえも予期できないほど驚異的なものである。だだっ広い身廊は36m の高さを誇り、西端からは東側にあるアプスの荘厳なドームが完全に眺められる。劇的に聳える円柱群は平坦な土台から天井のアーチの方向まで向かい、人々の目をアプスの壮大なクリアストリーへ導く。シャルトル大聖堂はフランス革命期で破壊または略奪に遭ったことがなく、数多く行われてきた修復もその華麗な美しさを作り変えてしまうことはなかった。大聖堂はいつの時代も不変のままであり、ゴシック芸術の勝利とも言えよう。1979年、大聖堂はユネスコの世界文化遺産に登録された。
  • また中世では大聖堂が重要な聖堂学校としても機能していた。カール大帝が9世紀にフランス市民のために教育のシステム導入を求めたが、学校を新設するのが困難で経費もかかった為、既に存在していた設備を利用した方が簡単だったのである。そのため大帝は大聖堂と修道院双方に学校の整備を命じた。この聖堂学校は教育の中心となる場所として結果的に修道院学校へと受け継がれた。このシャルトル大聖堂が教授した新しい論理学は、パリよりもかなり進んでいると多くの人々から評価された。シャルトル大聖堂で教育を受けた人物の一人にはイギリスの哲学者並びに作家であるソールズベリのジョン(John of Salisbury)がおり、後にシャルトル大聖堂の司教となった。
  • 英名:Chartres Cathedral
  • 仏名:Cathédrale de Chartres
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Basilique Sainte-Madelaine
  • Basilique Sainte-Madelaine

  • フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。
  • 861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のこと。1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
  • 英名:Vézelay, Church and Hill
  • 仏名:Basilique et colline de Vézelay
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Praça do Comércio
  • Praça do Comércio

  • ポルトガル・リスボンにある広場。『貿易広場』という意味である。テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paço、宮殿広場の意味)が有名である。これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。地震後、広場はポンバル侯の命令によりポンバル街の再建の一部として完全に改修された。
  • テージョ川岸の都市開発は、市の城壁外にマヌエル1世が新たにリベイラ宮殿を建てたために、1500年代初頭に明確に推進された。この一帯は港湾関係の建物が開発され、ポルトガルのアジア・アフリカ・アメリカの海外植民地とヨーロッパの他国をつなぐ貿易を取り締まっていた。リベイラ宮殿前の広大な広場(170メートル×170メートル)は、テレイロ・ド・パソと呼ばれ、建築家エウジェニオ・ドス・サントスにより均整のとれた姿に再建された。彼は、広場を広大に、テージョ河に向けて開かれたUの字の曲線の中に四角の形に設計した。建物の1階部分はギャラリーとされ、U字型の2つの終わりの部分には、崩壊したリベイラ宮殿の記念塔を回想させる2つの塔が建つ。装飾の細かい部分は変えられ、広場東塔とアウグスタ通りのアーチだけが19世紀になって完成したが、ドス・サントスの計画はほぼ完全に実行された。広場はコメルシオ広場と名付けられ、リスボン経済の新たな一部となった。広場の均整のとれた建築物は、政府関係の庁舎、港湾・貿易関連の目的で使用された。広場の中心にはジョゼ1世の像が建つ。このブロンズ像は、リスボンで初めて王へ献上された記念像で、当時最高の彫刻家ジョアキン・マシャド・デ・カストロの作品である。アウグスタ通りに向かって広場は開き、他のリスボン旧市街とつながる。エウジェニオ・ドス・サントスが考案したアーチは1875年に実現した。このアーチは『アルコ・ダ・ルア・アウグスタ』(Arco da Rua Augusta)と呼ばれ、ヴェリッシモ・ダ・コスタのデザインである。時計と、栄光の像と呼ばれるヴィリアトゥス、ヴァスコ・ダ・ガマやヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ポンバル侯の像が立つ。
  • Padrão dos Descobrimentos
  • Padrão dos Descobrimentos

  • ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大航海時代を記念した記念碑。ポルトガル語では「パドラオン・ドス・デスコブリメントス」という。
  • 記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてある。建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の万国博覧会の象徴として制作したものである。独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表しているとみられている。最初に作られた記念碑は、もろい素材で制作されたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。彼は記念碑にある像の一つとなり、川を見つめている。エンリケの後方に、その他の同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師らの像が並ぶ。約30名のポルトガル人の像がある。 記念碑の内部にある小さなスペースには、リスボンの歴史を展示している。記念碑の頂上(エレベーターで上がれる)では、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めが楽しめる。ベレン地区には、大航海時代の建築物で世界遺産であるベレンの塔とジェロニモス修道院がある。
  • 記念碑正面にある石畳は、多くのポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図のモザイクがある。このモザイクは、1960年に南アフリカ共和国から贈呈された。なお、世界地図にはポルトガルが「発見」した年が記述されているが、日本の場合ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されている。
  • Palácio Nacional da Pena
  • Palácio Nacional da Pena

  • 現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。
  • 1755年のリスボン地震が首都と周辺地域を荒廃させ、ペーナ修道院は廃墟と化した。しかし、ニコラウ・シャンテレネ作とみなされる大理石と雪花石膏でできた壮麗な祭壇背後の棚を備えた礼拝堂は、無傷であった。シントラの山頂に広がるこれらの残骸が、若いフェルナンドを驚愕させたのだった。1838年、カステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城、という意味。かつてのムーア人の城の廃墟)と他いくつかのキンタス(別邸)のすぐ隣である旧修道院をフェルナンドは手に入れ、周辺を全て囲いで囲んだ。フェルナンドは、空想的な夢を持っていた。古い修道院を再建し、シントラ滞在時にポルトガル王家が滞在する夏の離宮となる新しい部分を付け加えるのだと。ロマン主義的な再建命令が、陸軍中将であり採掘技師でもあったヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・エシュヴェーケに下された。宮殿全体はほぼ、巨大な岩々の上に壮大に立つ。 フェルナンドは、異国風の豊富な種類の樹木を植えてイギリス式公園をつくることを考えていた。このようにすると、公園とペーナ宮は魅惑的な王子と王女が登場する本の世界のようになる。宮殿のとっぴな様式は、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城を見る者に思い起こさせる(ペーナ宮殿が建てられてから30年後に、このバイエルンの城は建設された)。この違う様式の模倣と組み合わせは成功したといえず、マヌエル様式の窓のとなりにムーア風の扉があるといった具合に、しばしば不思議なコントラストを描く。
  • ペーナ宮殿の屋内装飾は、王家の夏の離宮として整備された。すばらしいしっくい細工、トロンプ・ルイユの施された壁、19世紀以来の多種多様なタイルの外装が、おびただしい数の王家の美術品の一部となっている。現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用される。
  • Convent of Christ in Tomar
  • Convent of Christ in Tomar

  • ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代 のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。 1983年に、ユネスコの世界遺産に登録された。トマールのキリスト教修道院は、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築といった様々建築様式が融合した建築物である。
  • 1160年に、戦略上の拠点として、トマールに城塞が建設された。ナバオン川に近い丘の上に建設された城塞は、城壁と地下室を兼ね備えていた。キリスト教修道院の地下室は、城塞における住居と司令塔の役割を果たし、テンプル騎士団によって紹介されたポルトガル最古のものである。トマールの町が建設された時点で、ほとんどの住民は、この要塞の中に居住していたとされる。 円堂:テンプル騎士団の紹介によって建設されたもう一つの特筆すべき構造物は、円堂(ポルトガル語でRotunda)である。12世紀に建設された円堂は、外側から見ると16角形の構造をしており、鐘楼をあわせて持つ。円堂の内部は、8角形の構造をしており、周歩回廊へとつながるアーチと結ばれている。前述のように、円堂は、エルサレムのオマール・モスクや聖墳墓教会をモデルとしたロマネスク建築である。
  • 柱頭:ロマネスク様式の性格を色濃く残しており、植物と動物のモチーフを描写している。柱頭の様式は、同時代に建設されたコインブラの旧大聖堂の影響を受けている。
  • 円堂内部:シック様式/マヌエル様式の彫刻と絵画で飾られており、増築は、1499年にマヌエル1世が命じた。中央部の8角柱と周歩回廊の壁面は、ゴシック様式の天蓋で覆われた聖者と天使の彫像で彩られ、一方で、キリストの一生涯を描写したゴシック様式の絵画とパネルで周歩回廊の壁と天井は彩られた。
  • 墓の回廊と沐浴の回廊:エンリケ航海王子は、ゴシック様式の身廊を修道院に増築した。墓の回廊(ポルトガル語でClaustro do Cemitério)と沐浴の回廊(ポルトガル語でClaustro da Lavagem)である。墓の回廊は、騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設された墓所であり、優美な2本の円柱の柱頭は、植物をモチーフに描写していると同時に16世紀に作られたタイルで壁は飾られている。また、マヌエル様式のヴァスコ・ダ・ガマの兄弟であるディオゴ・ダ・ガマの墓もある。沐浴の回廊では、かつて修道僧がここで沐浴をしたことから、その名前がつけられた。
  • サンタ・バルバラの回廊:サンタ・バルバラの回廊(ポルトガル語でClaustro de Santa Bárbara)は、16世紀に作られた。テラスの上部には、有名なマヌエル様式の窓がある。マストやロープ、鎖といった大航海時代をモチーフとして用いられている。
  • ジョアン3世の回廊:ジョアン3世の時代に建設が開始された回廊がジョアン3世の回廊(ポルトガル語でClaustro de D. João III)ある。1557年に建設が開始され、完成したのは、1591年のフィリペ1世の時代である。
  • 英名:Convent of Christ in Tomar
  • 仏名:Couvent du Christ à Tomar
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1983年
  • Porto
  • Porto

  • ポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指のグローバル都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。英語では伝統的にオポルト(オポートウ,Oporto)とも言う。聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂など市街地はポルト歴史地区として1996年に世界遺産に登録された。
  • 歴史:ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。ポルトを含む一帯は、イスラーム勢力に占領されたこともあったが、12世紀フランス王の一族であるアンリ・ド・ブルゴーニュがレコンキスタでこの地を奪回した。18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。
  • 英名:Historic Centre of Oporto
  • 仏名:Centre historique du Porto
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1996年
  • the Palace of Westminster
  • the Palace of Westminster

  • 英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。なお近隣のテムズハウスがイギリス情報局保安部である。
  • ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster) と呼称されるようになった。これは西方の修道院 (West Monastery) の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。
  • 中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。
  • 1529年の大火が発生するまでウェストミンスターは王の宮殿として機能していた。1530年にヘンリー8世はヨーク宮殿をトマス・ウルジー枢機卿から手に入れ、ホワイトホール宮殿と改名して自身の宮殿として使用した。公にはウェストミンスター宮殿が住居であったが、実際には二つの議会および裁判所として利用されていた。本来宮殿であったウエストミンスター宮殿には議会としての利用に適した部屋が存在しなかった。議会の開会式など重要な国事行事はPainted Chamberで執り行われた。貴族院はホワイト・チャンバーで、庶民院については固定した開催場所が存在せず、時にはウェストミンスター寺院のチャプター・ハウスで開催されている。その後宮殿内の聖ステファン教会が議場とされたがこれはエドワード6世統治下のみに終わった。
  • 1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリーの設計したゴシック様式のデザインを採用した。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。 ウェストミンスター宮殿は1941年まで利用され続けていたが、この年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が破壊された。ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって元のサー・チャールズ・バリーの設計を残して1950年に完成した。
  • Royal Botanic Gardens, Kew
  • Royal Botanic Gardens, Kew

  • イギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。2003年にユネスコ世界遺産に登録された。
  • 植物園はロンドンの中心部から南西に位置するリッチモンド・アポン・テムズとキューの中間に設けられている。現在の園長はサー・ピーター・クレーン。過去には、サー・ジョゼフ・バンクスやサー・ジョセフ・ダルトン・フッカーなどが園長を務めた。
  • キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まる。その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズの設計による建築物が何棟か建てられた。そのうちの1つである1761年建造の中国のパゴダは今日も残されている。ジョージ3世はウィリアム・エイトンやサー・ジョゼフ・バンクスに命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせた。旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて皇室の子供達を育てる施設とした。この建物は現在キュー宮殿として残されている。1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成した。
  • 往時のキュー王立植物園は、世界各地から資源植物(人間生活に必要なものを作ることができるとされた植物)を集め、品種改良などをおこなう場でもあった。イギリス植民地内の各植物園と情報交換などをおこない、それにより、育成条件の合致する植民地に移植してプランテーションでの大量生産を図った。
  • Stonehenge
  • Stonehenge

  • ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。
  • 円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。 馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。
  • この遺跡とその周辺は、1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。
  • 初期の多くの歴史家の説明は、超自然的な言い伝えに影響されていた。魔術師マーリンが巨人を使役して作らせたとか、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできたなどという伝説もある。このほか、悪魔が作ったとするものもある。ハンチントンのヘンリーが、1130年頃この遺跡に最初に言及した。そのすぐ後に、モンマスのジョフリーが、アーサー王と関連付ける架空の記録を最初に記した。これにより、この遺跡は中世ヨーロッパのロマンスに取り込まれていくことになる。1615年、イニゴ・ジョーンズは、ストーンヘンジがカエルス(ギリシアの天王神ウラヌスのラテン語名)に捧げられたローマの神殿であり、トスカナ式建築で作られたと主張した。後世の注釈者は、デーン人がこれを建てたと言い続けた。実際、19世紀の末に至るまでは、この遺跡はサクソン人かその他の比較的新しい民族の手によるものだと広く思われていた。
  • この遺跡を調査する最初の学術的試みは、1740年頃、ウィリアム・スタッカレーによって行われた。例によってスタッカレーはこの遺跡をドルイドの手によるものだと誤って結論付けた。しかし、彼はこの遺跡の測量図を残した最初の人物となった。この図があったために、形状と大きさについてのさらなる分析が可能になった。この業績により、彼は石の配置が天文学または暦学上の役割をもっていることを示すことができた。19世紀の転換期までに、ジョン・ラボックは、付近の古墳から発見された青銅器に基づき、この遺跡が青銅器時代のものであることを示した。
  • Frontiers of the Roman Empire
  • Frontiers of the Roman Empire

  • ユネスコの世界遺産登録物件名である。ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されて、1987年にイギリスのハドリアヌスの長城が単独で登録された。その後、2005年にドイツのリーメスを拡大登録した際に現在の名称となり、2008年にはイギリスのアントニヌスの長城も含まれることが決定した。
  • ハドリアヌスの長城
  • ハドリアヌスの長城は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにある長城で、1世紀後半に版図にブリタンニアを組み込んだローマ帝国がケルト人のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた。皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始される。
  • リーメス
  • リーメスまたはリメス(Limes)は,ドイツのライン川とドナウ川の間に残るローマ帝国時代の長城跡。リーメスの建設は、紀元前2世紀頃から始まり、目的としては、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。リーメスの遺構は、主に長城と物見櫓、砦に分けられる。長城の総延長は約550kmで、東はドナウ川から西はライン川まで達する。長城は大きく分けて、北部ドイツ(Upper-German、約330km)とラエチア(Raetian、約220km)の2つの部分に分けられる。北部ドイツ部分は、ライン川とライン川の支流であるマイン川に沿って、土塁による長城と堀が設けられていた。堀は約8mの幅と約2.5mの深さを持っていた。また北部ドイツ部分には長城にそって約40の砦が築かれていた。ラエチア部分は、うち約167kmは高さ約3m、幅1.2mの石塁で築かれた。石塁は、付近から産出する石を使用していた。物見櫓は長城の塁に沿って、およそ300mから800mの間隔で建てられた。現在、896箇所が確認され、うち260箇所は現在でも構造の一部が残る。櫓の構造は、土台が4mから8mほどの大きさの正方形をしており、その上に見晴台が築かれたと推定されている。長城に沿って、大型のものは約60以上の砦跡が確認されている。大型の砦には1つあたり約100から1000人程度の守備隊が配置され、長城の警備および長城を通過する人々を管理する関所の役割を果たしたと考えられている。また20から30人の配置規模の偵察や監視を目的とした小さな砦も多数存在していた。リーメスの砦の中で調査が行われているものの1つのザールブルク砦(Saalburg fort)は、北部ドイツの部分に属し、砦の初期は紀元前90年頃の建築と推定され、長方形の形をしており、面積は約0.7haであった。ザールブルク砦の発掘調査は、19世紀後半から始まった。1897年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、このザールブルク砦の再建を命じ、第一次世界大戦前に完成した。現在ではこの時に復元されたザールブルク砦が博物館として使用されている。
  • Tower of London
  • Tower of London

  • イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞である。正式には「女王陛下の宮殿にして要塞」(Her Majesty's Royal Palace and Fortress)と呼ばれるように、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。その景観から「ホワイト・タワー」とも呼ばれる。世界最大級のカット・ダイヤモンド「カリナン」はここで保管されている。
  • 1066年にイングランドを征服したウィリアム1世が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、本体は約20年で完成した。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成した。長い歴史の間に国王が居住する宮殿として1625年まで使われ、その間、14~19世紀にかけては、造幣所、天文台でもあり、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは、王立動物園でもあった。なお、ロンドン塔に最後に居住した王はジェームズ1世とされる。また、身分の高い政治犯を幽閉、処刑する監獄としても使用されたはじめたのは1282年のことで、やがて14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する処刑場となった。現在もイギリス王室が使用している宮殿であるが、ロンドン観光の目玉になるほど観光客も多く、内部にある建物の幾つかは、世界最大のダイヤモンド「偉大なアフリカの星」など様々な歴史的展示物を陳列して、見学できるようになっている。1988年にはユネスコ世界文化遺産にも登録されている。すぐ近くには、世界的にも有名な跳ね橋であるタワーブリッジがある。