Kara Crest

World Heritage of Asia
  • 姫路城
  • 姫路城

  • 兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にあった城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存している。
  • 歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの、天守閣最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となるという幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。現在では天守を始め多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産に登録されている。現存天守は、江戸時代以前に建造された天守が現存する日本国内12箇所の城の一つであり、いわゆる「国宝四城」の一つでもある。
  • 【名称の由来】姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
  • 屋久島
  • 屋久島

  • 九州大隅半島の南南西約60kmの海上に位置する島。鹿児島県熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。豊かで美しい自然が残されており、島の中央部の宮之浦岳を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47km²がユネスコの世界自然遺産に登録されている。
  • 島は周囲約132km。火山島ではなく、大部分は花崗岩からなっている。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえるほか、他にも数多くの1,000m級の山々を有し、「洋上のアルプス」の呼び名がある。また、海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間降水量は平地で約4,000mm、山地では8,000mmから10,000mmにも達する。また、亜熱帯地域に位置する島でありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されている。
  • 島の中心部には、日本最南端の高層湿原である花之江河、小花之江河が存在するほか、山頂付近の年間平均気温は約5℃であるために積雪が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている。
  • 野生哺乳類としては、ヤクザルやヤクシカ、コウベモグラ、ジネズミ、ヒメネズミ、コイタチ、コウモリ数種しか生息していない。1990年代から外来種のタヌキが観察されるようになり、定着したものと思われる。薩摩藩政時代にはジュゴンが、昭和初期にはカワウソが生息していたことが報告されている。
  • 原爆ドーム
  • 原爆ドーム

  • 広島平和記念碑は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑である。もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっている。北は相生通りを挟んで広島市民球場と向き合う。
  • 1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、350万パスカルという爆風圧にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。
  • ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物として残った。広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。復興が進む中で、廃墟など危険建造物の除去が進められたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、1955年には原爆ドームを基軸とする「広島平和記念公園」が完成した。
  • 厳島神社
  • 厳島神社

  • 広島県廿日市市の厳島にある神社である。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社とされる。厳島神社のある厳島は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、「日本三景」の一となっている。「平家納経」で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺の石舞台、住吉大社の石舞台と共に「日本三舞台」の一。高さ16メートルの大鳥居も春日大社と気比神宮の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一とされる。
  • 厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)で、『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。
  • 平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。厳島神社は平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。 戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。
  • 白神山地
  • 白神山地

  • 青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がる山地で、人の手が加えられていないブナの原生林からなる地域である。昭和29年発行国土地理院地勢図には白神山地の名称が使われているが、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていた。
  • 【ブナの原生林】白神山地は、名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはない。眺望が良い場所や高山植物が咲いている場所に行くためには、それなりに苦労をしなければならない。世界遺産の登録は、観光地であるからではなく、このような人為の影響をほとんど受けていない原生的地区が広大に広がっている場所が世界的に珍しいためである。 白神山地の中で特に眺望が良い場所は、白神山地に詳しい根深誠は順番に天狗岳、小岳、二ツ森、白神岳をあげている。
  • 【暗門滝】3つの滝からなる暗門滝(青森県中津軽郡西目屋村)は、駐車場やバス停から片道1時間で行け、また、世界遺産緩衝地域内にあるため、観光地として人気がある。
  • 【岳岱自然観察教育林】樹齢400年とも言われる巨大なブナをシンボルとした保護林。大小の苔むした巨岩とブナ林との対比が面白い。遊歩道やトイレなども整備されている。広い駐車場もあり整備が進んでいるが、最近ブナの傷みが指摘されている。また、この岳岱自然観察教育林の近くには田苗代湿原があり、ニッコウキスゲなどの高山植物が咲く。
  • 【二ツ森】世界遺産緩衝地域内にある山。国道101号から真瀬林道、青秋林道を通った終点にある二ツ森登山道入口から約5分で世界遺産地域に入れるため、観光地として人気がある。登山道を約1時間弱歩くと標高1,086mの二ツ森山頂に着く。頂上からは、世界自然遺産地域が一望できる。
  • 白神山地にはめずらしい動物も生息している。鳥類ではキツツキの種類の中でも一番大きく、絶滅が心配されている天然記念物のクマゲラが穴をあけ巣造りをする。カラスのように大きなクマゲラが選ぶ木は朽ち始めたような木ではなく、元気な太い木である。また、外敵から守られるように蔦のからまった木は選ばない。その他、イヌワシ、クマタカ、シノリガモの生息が確認されている。その他の動物では、カモシカ、ニホンザル、ヤマネ、ツキノワグマが生息する。秋田県では、ニホンザルが群れとして存在する場所は白神山地のみである。
  • 万里の長城
  • 万里の長城

  • 中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産かつ新・世界七不思議。東端の遼寧省虎山から今まで東端とされていた河北省山海関に至り、西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8km。一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したことから、長城は西の玉門関まで拡張された。現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にしたり、観光客へ販売するなどの目的で長城の煉瓦を持ち去り、破壊が進んでいる。2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされた。かつてはその長大さから「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認するのはきわめて困難である。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した楊利偉飛行士が、「『万里の長城』は見えなかった」と証言したため、中国の教科書からこの説は正式に削除された。
  • 天壇
  • 天壇

  • 中華人民共和国北京市崇文区に位置する史跡で、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)である。1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていたが、1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるようになった。 中華民国(台湾)の台南市にも天壇が存在する。
  • 【圜丘壇】形は天円地方の宇宙観に則り円形である。また欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。各壇の直径を合計すると45丈であり、これは単に9の倍数という意味だけでなく、九五之尊という意味も持つ。
  • 【皇穹宇】皇室の皇に、大空を表す穹と、宇宙の宇という字を書きます。圜丘で祭事が行なわれるとき、壇の上に置かれる天の神や、歴代の皇帝の位牌をふだん安置しておくところ。
  • 【祈年殿】天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる。祈年殿では皇帝が正月の上辛五穀豊穣を祈りを捧げた。中国建築史上重要な建造物とされる。木造で宝頂は金メッキがなされている。屋根は瑠璃瓦葺きの三層になっており、明の時代には上から青、黄、緑となっていたが1751年にすべて青色に変えられた。
  • 廬山
  • 廬山

  • 中国江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産に登録されている。廬山は、長江や鄱陽湖畔からも見える高山である。東北から西南方向に山並みが伸び、最高峰である漢陽峰は海抜1,474メートルに達し、山脈全体の面積は282平方キロメートルになる。東は鄱陽湖に依り、南は滕王閣を望み、西は京九線が走り、北には長江が流れている。
  • 廬山は、四周を断崖絶壁に囲まれ、近づきがたい雰囲気が漂っているが、山頂付近にある牯嶺一帯には広くて浅い谷があり、雲や霧が漂い渓流が流れ、風景の美しさで知られる保養地になっている。廬山は、莫干山・北戴河・雞公山とならぶ中国四大避暑地とされている。森林覆蓋率は76.6パーセントに達し、植生の豊かさでも知られる。廬山は、古来より名勝として知られ、東晋の田園詩人で九江の人・陶淵明の「飲酒二十首」其の五に「菊を採る東離の下、悠然として南山を見る」と歌われたのをはじめ、李白、白居易ら多くの詩人に歌われている。
  • 頤和園
  • 頤和園

  • 中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山、玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平白浮村神山泉水から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。頤和園の前身は清漪園である。1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。当時の清漪園内には居住及び政務施設が極めて乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。またその後も柳亜子や江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。
  • 殷墟
  • 殷墟

  • 中華人民共和国河南省安陽市に位置する古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構。河南平野の現在は近代的なビルが林立する安陽市街地に位置している。
  • 殷墟は殷王朝後期の宗教的、文化的な中心地であった。盤庚による遷都から帝辛(紂王)の時代の滅亡に至るまで期間、殷朝の首都であったと伝えられる。盗掘された甲骨片の発見が契機となり、1928年より発掘作業が開始され、殷の首都であることが確認されるに至った。殷墟からは深さ20メートルを超えるものを含む多数の巨大墳墓が発見されている。
  • 発掘に至るまでについて真偽は不明であるが、1899年に金石学者であった王懿栄は、北京市内の漢方薬店で購入した龍骨(漢方薬の一種である骨)に金文に類似した古文字を発見、これを解読すべく龍骨を大量に購入したと伝えられる。
  • 殷朝遺構の調査のため、1928年から甲骨の発掘調査が行われることになった。中央研究院は考古学者による発掘隊を組織、日中戦争で中断する1937年まで15回にわたる発掘作業を行い、甲骨だけでなく青銅器などの金属器や墳墓などの遺跡も発見された。1950年に発掘は再開され、1986年までの間に15万件の甲骨が発掘されている。
  • Taj Mahal
  • Taj Mahal

  • インド北部アーグラにある総大理石造の墓廟建築。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド=イスラーム文化の代表的建築。
  • 名前の由来はよくわかっていないが、王妃の名ムムターズ・マハルを縮めたものではないかという説が有力である。ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーガムという。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。
  • シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建設した霊廟である。竣工してまもなく、シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に黒大理石を基調とした自身の墓廟の建設に着手した。計画では、川をはさんで白大理石と黒大理石の墓廟が並び、その間を大理石の橋で繋ぐ事になっていた。しかし、晩年の彼は息子のアウラングゼーブ帝によってアーグラ城に幽閉され、タージ・マハルを毎日眺めては涙を流して過ごしたと伝えられている。対岸には現在も整地された基底部が残っており、タージ・マハルの裏から渡し船で行く事ができる。その頃には隆盛を極めたムガル帝国の国庫も、度重なる建設事業により底をついていたという通説が流布されているが、後継者アウラングゼーブ帝が40年にわたって大規模な軍事侵攻を行い続け得たことからして、シャー・ジャーハン治世においてはムガル帝国の財政はそれほど窮乏してはいなかった、とみるのが妥当という説得力ある説も提示されている。実際に、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンをタージ・マハルに葬ることを認め、その棺をムムターズ・マハルの棺の隣に設置した。
  • Moenjodaro
  • Moenjodaro

  • インダス文明最大級の都市遺跡。モヘンジョ=ダロの地名は現地の言葉で「死の丘」を意味するものであり、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代に生きたであろう得体の知れない死者が眠る墳丘として, 地元民に代々伝えられる禁忌の領域であった。
  • 紀元前2500年から紀元前1800年にかけて繁栄したと考えられている。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されている。しかしその後、きわめて短期間のうちに滅亡の時を迎えたと考えられており、さまざまな憶測が絶えない。
  • 紀元前2500年から紀元前1800年にかけて繁栄したと考えられている。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されている。しかしその後、きわめて短期間のうちに滅亡の時を迎えたと考えられており、さまざまな憶測が絶えない。
  • モヘンジョ=ダロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)には、現代人が「大浴場」「公衆浴場」などと通称している、長辺約12m、短辺約7m、深さ約2.5mという規模のプール型の施設がある。これは、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。
  • 文明遺跡としての発見は、1922年、インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・ボンドパッダーエの発掘調査によってなされた遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。
  • Angkor
  • Angkor

  • カンボジアの北西部、トンレサップ湖の北にあったクメール王朝時代の遺跡群。この地には、9世紀頃から数々の王建設が開始された。この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスーリヤヴァルマン2世とジャヤーヴァルマン7世と言われる。スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされる。しかし、ジャヤーヴァルマン7世が崩御した後のアンコールはアユタヤ朝の進入を度々受けその存在を侵され始め、その後ポニャー・ヤット王にはついにアンコールを放棄するに至った。
  • Palmyra
  • Palmyra

  • シリア中央部のホムス県タドモルにあるローマ帝国支配時の都市遺跡。シリア中央部のホムス県タドモル(タドムル、アラビア語: تدمر ‎、アルファベット転写:Tadmor)にあるローマ帝国支配時の都市遺跡。
  • パルミラの近くからは、約70000年前の旧石器時代の石器が発見されている。ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代ごろの粘土板からもこの都市の名前と思われる記述が見つかっている。旧約聖書(歴代誌第二、8章4節)では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている。列王記第一の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードやミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかではこの街をシリア砂漠にあると記している。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシャ語のパルミラの名も併記されている。
  • 【セレウコス朝~ローマ時代】
  • 紀元前1世紀にはパルティアと共和政ローマの間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。紀元前41年にローマの将軍マルクス・アントニウスがパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされる。
  • 【パルミラ王国】212年、サーサーン朝(ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、チグリス川およびユーフラテス川の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになった。パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、セプティミウス・オダエナトゥスは皇帝ウァレリアヌスからシリア属州総督に任命された。260年にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、クテシフォンにも2度侵攻した。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にあったが、267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを擁立してパルミラの実権を握った。
  • 【ローマ以後】東ローマ帝国の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていた。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されている。634年、最初のムスリムがパルミラにたどり着き、次いで636年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いる正統カリフ軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。
  • Takkasilā
  • Takkasilā

  • パキスタン・パンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構である。その歴史は紀元前6世紀まで遡ることが可能であり、六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派、また、インドの仏教の中心の役割を果たしてきた。タキシラは歴史的に3つの重要な交易路が交差する場所に位置していた。1つはマガダ国の首都パータリプトラから続く道であり、1つがバクトリアやペシャーワルといった北西から続く道、最後の1つがシュリーナガル、マーンセヘラー、 ハリープル渓谷を経由してシルクロードへとつながる道である。
  • 伝説上では、タクシャシラという王国がタキシラを中心とする地域を支配したとされる。サンスクリットでは、タクシャシラとは、タクシャ王に所属する土地を意味する。タクシャは、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するバラタの子供とされる。また、インドを代表するもう1つの叙事詩『マハーバーラタ』では、クル王国の戴冠がタキシラで行われたと伝えられている。
  • タキシラの発掘は、1872年にイギリス人考古学者アレクサンダー・カニンガムによって始まった。数多くのガンダーラ美術の傑作がタキシラから発掘され、1913年から1934年の間には、ジョン・マーシャル卿による発掘作業が行われた。マーシャル卿による発掘された出土品はタキシラ博物館に展示されている。
  • 【ビール・マウンド】タキシラの都市遺跡の中でも最も古い遺構である。「混雑した丘」を意味する。南北1100m、東西670mの範囲に広がっていた。4つの層から形成され、一番古い層は、アケメネス朝時代のものである。第2層はマウリヤ朝時代のものである。バクトリア王国時代にシルカップが建設されたため、放棄された。
  • 【ダルマラージカー】キスタンにおける最古の仏教遺跡の1つであり、建設は、アショーカ王の時代に遡る。仏教に帰依していたアショーカ王は、仏陀の聖遺物を収集し、8つのストゥーパに分納した。ダルマラージカーは、そのようなストゥーパの1つであり、高さ15m・直径50mのメイン・ストゥーパの周囲には、小ストゥーパ群が建設された。小ストゥーパの建設は4世紀まで続き、また、多数の祠堂や僧院が建設された。ダルマラージカーは、西暦30年ごろの大地震を経験しているが、カニシカ王の時代に大幅な補修を受けている。メイン・ストゥーパのドーム部分は、仏教の右中間を表現した7つの傘が積み上げられている。
  • 【ジャンディヤール】紀元前2世紀ごろに建設された。バクトリアによる建設であり、ギリシア神殿の様式を持っている。正面のポーチを4本のイオニア様式の支柱が支えていたとされる。ジャンディヤールの神殿はジョン・マーシャルの手によって発掘され、マーシャルはここの神殿をゾロアスター教の神殿ではないかと推測している。
  • 【シルカップ】タキシラの対岸に位置し、バクトリア人によって建設された。2世紀にクシャーナ朝により、シルスフが建設されるまで首都としての機能を有していた。町を南北に貫くメイン・ストリートの存在、碁盤目状の都市形態であり、家屋は石灰岩のレンガを積み上げた上で、その上を泥や壁土で塗装したものも見受けられる。
  • 【ジョーリヤーン】、タキシラを一望することができる丘の上にある考古遺跡である。2世紀のクシャーナ朝時代に建設されたジョーリヤーンにもまたストゥーパと僧院が建設された。メイン・ストゥーパの周囲には小ストゥーパ群が展開していると同時に、様々な彫刻群が施されている。メイン・ストゥーパの東側に僧院が広がっていた。僧院の在りし日の姿は中庭を僧坊が囲む形で建設されていた。
  • 【ピプラン】東側の僧院の建設は1世紀の建設である。中庭のストゥーパを囲む形で僧坊が並ぶ。西側の僧院の建設は4世紀ごろとされる。